ニセモノの床の店
今週の土曜日の朝、喫茶室の書架の本を少しだけ差し替えました。
室内の棚には、近隣図書館の開架や近郊の書店で見つけにくい本(※)を中心に
並べています(※三十●年の間に当時の一般書店で買った〔普通の本〕が大半です)。
「お客さまお一人お一人に、好きな本を携えてご来店いただきたい。」
という思いが強いことと、個人の蔵書の範囲内で少しずつ入れ替えをしているため、
三年目に入った今でも、開店当初の棚とそれほど大きくは変わっていません。
季節に合わせ時期に合わせて、またお客様からのお話しで得たヒントを元に、
少しずつ差し替えていますが、基本的には当室では〔本そのもの〕ではなく
〔心おきなく本を読める場所〕を提供していきたい。と考えています。
新しい情報がどんどん届く時代だからこそ、ゆっくりと読書したい人もいるかもしれない。
都会より多分少し人同士が近いこの地方だからこそ尚更たまには一人になりたい人や、
つながりが大切と言われる現代だからこそ、一人になれる場所を望む人もいるかもしれない。
人がひとりになりたい時、その傍に寄り添うものはきっと人それぞれで好みもありますが、
「本」は、そのもの自体が「場所」にも成り得る力を持つモノのひとつだと思います。
ひとりになりたい時、本を読みたくなった時に行ける場所が、もっと多くあってほしい。
……そんな、やや天邪鬼でお節介な気持ちが高まって、週末の読書喫茶を始めました。
普通の住宅の一室を改装した、カウンター6席のみの とても小さな喫茶室。
お洒落なブックカフェには(内装も店主も)ほど遠い、とても小さな一部屋ですが、
週末に、ささやかなおやつと飲みものを用意して、営業しています。
お好きな本を片手に、道草気分でお立ち寄りいただけましたら幸いです。
(※オマケの裏話がずいぶん長くなってしまったので、続きは折り畳みました。)
2013年の秋に開店して、おかげさまでこの九月から三年目に入りました。
開店したばかりの頃も、つい最近の営業日にも、複数のお客様から折にふれて
「本屋は始めない(本は売らない)んですか?」とお問い合わせをいただきます。
その都度、ありがたいような申し訳ないような気持ちで考え考え言葉を選びつつ、
「恐らく今後も、本の販売を始めることはないと思います。」と、お返事しています。
ちゃんと〔お客様にコンスタントに本を届け続けていく〕ためのお金も能力も、私には
全然足りません。――それでも、何か。一人の本好きとして、何か、できないか。
そう考えた時に、「本をゆっくり読める場所」を提供する場所のひとつになりたい。
という思いが強くなり、この読書喫茶を始めました。と、お伝えすることもあります。
(下世話な話ですが、書籍代は店の経費に一切計上していません。少し迷った時期も
ありましたが、「ここで読書喫茶を始める上でいちばん大事にしたいこと」を考えた時、
「自分の偏った本を紹介するより、各人が好きな本をゆっくり読める場所でありたい」と思い、
棚に置く本は、個人の蔵書の内でも最小限に留めよう。と、開店前に線引きしました。)
先日、長良川の向こうに新しく出来た丸善ジュンク岐阜店(県下最大級!)に行き、
その流石の充実ぶりに、内心こっそり文字通り、狂喜乱舞してしまいました。
広々としたフロアの中は、私にとってはもう、宝の山のようでした。
名古屋までいかないと今までなかなか直接手に取って検討できなかった高価な製菓の教本や
児童書や外国文学、各種文庫本単行本、絵本や詩集、地図や図鑑、辞典類などなどなど……。
好きなジャンルに絞っても、一時間少々の短い時間では回りきれないほどでした。
そして、資本と知識、技術と能力と経験と戦術があることは、大きな力だ凄いことだ。と
今更のようにとても強く感じました。感動、と言っても、良いかもしれません。
わくわくしつつ棚を見ながらふと、「店に置く本は、もう少し減らそう」と、考えていました。
直接本を手に取れる場所は、少しでも多くあってほしい。という気持ちは変わりませんが、
自分に出来ることと出来ないことが、改めてはっきりしたことで、決心が付きました。
たくさんの本が並ぶ棚から好みの一冊を探し出す経験は、積み重なるほど面白くなります。
膨大に発行されている書籍の中から「楽しみ」を提供できる棚を作り続けていくには、
棚が常に新陳代謝をし続けていることも肝要ですが、そのためには開店前に考えていた以上に
資本と時間(人手)、センス、技術、人脈、etc.……まるごとの「本屋の才能」が、必要です。
けれど「ただの本好き」である私には、その荷はとても大きくて、持ち上げることも出来ません。
毎週仕込みや準備をし、営業し集計し、掃除をして……その繰り返しで、精一杯です。
様々なことがあり、平日の仕事も忙しくなり、営業の継続自体を迷ったこともありましたが、
続けて来てくださるお客さまが複数ある限り、小さな規模でも、続けていきたい。と思いました。
もう少し何か出来るはずだ。とも。……弱音ばかりで、もう充分甘えた話ですが、今の力でも
「この場所」を細く長く続けていくために、形を絞って営業を続けていくことにしました。
棚には、本を持参されなかったお客さまにもくつろいで過ごしていただけるような
最小限の冊数を置こう。……その思いは、日を重ねるほどハッキリと強くなりました。
〔ブックカフェ≒「セレクト」された本が並ぶ場所〕という傾向への違和感も、年々増しています。
「蔵書を自慢したくて始めたの?」と尋ねられたこともありますが、滅相もないことですし、
〔アイテム〕になるような本は、(あまり詳しくないですが)ほとんどないと思います。
棚に並ぶ本の内容は、(どの本もとても好きな本ばかりなので)自信満々ですが、それは
作者さん方の凄さですし、個人の好みもある……と思うので、原則こちらからは話しません。
諸々鑑みて少しずつですが、東南の本棚以外は今後いっそう面陳が増えていきそうです。
さて、タイトルの件について。
もうずいぶん前のことになりますが、初めていらっしゃったお客様がお帰りの際に
「私も開店迷ってたんですけど、こんなニセモノの床のちっちゃい部屋でも店がやれるなら、
私の家ならもっと素敵に出来そうで勇気が出ました!」と笑顔で仰ったことがありました。
ご注文の際に、「(奥さまが)時々こちらに行くからどんな店か聞いたんだけど、
聞けば聞くほど何が売りなのかよく分からなくて、気になって一緒に来ちゃいました」
とおっしゃっていた旦那様がいらっしゃいました。(旦那様には、怪しい系(?)でも
何でもない、本好き用の喫茶店なんだね。と、安心して頂けました。嬉しかったです。)
前述の「ニセモノの床の店」という形容は、本当に見事に当室を表現している言葉です。
床掃除をする都度、その通りだなと思います(皮肉ではなく)。
「起きて半畳寝て一畳」とは、江戸時代から言われている諺だそうですが、私は
そこに「好きな本数冊と責任のある仕事ひとつ」と付け足したくなる人間です。
うちが「ニセモノの床」なのは単純な理由ゆえですが、きっと足場板でも節有の杉材でも
松の板でも畳でもリノリウムでも、読みたければどこでも本は読める(念のため屋根は欲しい)。
公園や河原は随分減ってしまったけれど、外でも読める。――と、正直なところ思っています。
それでも、当時(理由は掘り出すと長くなり過ぎるので割愛しますが)、
どうしても始めたくて、タイミングも合って、この読書喫茶を始めたから。
当室は(無垢材の良さが広く知られた現代に逆行するように)「ニセモノの床」なのでした。
卑下でも開き直りでもなく、当時できる最上級の、分相応な「床」でした。
内装は「店舗」の重要なファクターだと理解した上で、私自身はこのビニール製の木目の床を
残念に思ったことはありません。工事中ハプニングはありましたが、色目も好きです。
(いつか松材にしたい……!という野望は別次元で今もありますが、遥か彼方の話です。)
「ニセモノの床のかなり狭い部屋」を、「再訪して頂ける店」にしていきたい。と、日々本気で
真剣に考えて行動してしまうのは、負けず嫌いで向こう見ずで天邪鬼だからかもしれません。
そして「この床」でも気にせず再訪して下さるお客様が複数いらっしゃることは、私にとって
何より嬉しく、密かにすごく自慢で、とても励みになる「大切にしていきたい現実」です。
日々忙しく働くお父さんお母さんお兄さんお姉さんお爺ちゃんお婆ちゃん学生さんが
ふと一人になりたくなった時に、くつろいで過ごせる、本と向き合える場所でありたい。
少しずつ少しずつ時間が重なり、繰り返しご来店下さるお客さまが増えるほどに、
その思いはいっそう強く大きくなり、続けていく支えになってきています。
数年という短い司書の経験からですが、「無料」や「公共」のスタンスは一個人には
荷が勝ちすぎると感じていたので、「見ず知らずの有料の小さな場所」でも公の下で安心して
お客さまに本を読みながら過ごして頂けるように、少し頑張って喫茶営業の資格を取りました。
喫茶については完全な門外漢から始めたので、(開店前は無論)現在も目から鱗が落ち続けです。
今徐々に「喫茶」の奥深さや面白さ怖さにもはまりこみつつありますが……難しくて、楽しいです。
お客さまから教わることもたくさんあり、反省点修正点も色々盛りゝゝ山積みの日々です。
ポジティブには受け取り難い文脈の中で「いい趣味だね」と言われることも、日常茶飯事です。
格好悪いところも多いですし、見知らぬ方に皮肉られたり困惑する事なども時々はありますが、
そういうところも全部まるごと含めて「店」であり、〔本と道草〕なのだろうと思っています。
(初心を大事に。と思いつつ、良くも悪くもちょっと開き直ってきたのかもしれません……。)
恐らくこれからも私は、一見のほほんと店に立ち、仕込みをし、時々内心半泣きになりつつも、
極力この二足の草鞋の紐を、ほどけないように繰り返し結び直し続けるでしょう。
多種多様な他の「仕事」に就いている方々と、その点ではきっとほとんど違いもない筈です。
より丈夫に縄を綯い、替えの草鞋を編めるようになれれば一番ですが、まずは紐が切れないように。
もし切れたとしても、失くす前に見つけて修理できるように。(平日の仕事の方もですが、)
週末の喫茶室に来てくださるお客さまと誠実に向き合って、店を育てて。
ちゃんと続けて、いきたいです。
いつの間にやら、不惑までも片手で事足りる年になっていました。
我ながら茨の道というには程遠い、コンニャク(原料は芋)のような足元も覚束ない道ですし、
まだまだ惑いっぱなしの日々ですが、月日が経つのは本当に早いものです。
……がんばります。